作家の玉岡かおるさん(52)は、認知症の義母、釜石ひさ子さん(82)の介護を、夫や義姉とともに5年間 続けています。義母を世話する介護の主体者でありながら、介護方針では夫や義姉の考えに従うしかない「嫁」の立場に苦しみました。そんな玉岡さんを支えたのは、同じ嫁仲間でした。
気丈な性格で、主婦業を完全にこなしてきた義母に物忘れが目立つようになったのは、7年ほど前のことです。
実家で一人暮らしをしていたのですが、鍋に火をかけたままにしたり、お風呂を空だきにしたりと、危険なことが増えました。それでガスを止めると、止めたことを忘れて「ガスが来ていない」とガス会社に電話するんです。
病院で義母は認知症と診断され、玉岡さん夫婦の家に引き取ることになった。実家近くに義姉もいたが、義母が「長男がいい」と、玉岡さんの夫の家を選んだことも大きかった。
当初は我が家で介護しようとしましたが、義母は実家のことが気になって仕方がないため、すぐにここから飛び出して勝手に帰ろうとするんです。そのまま徘徊してしまうこともありました。
それで、できるだけ義母の望みに沿う形に変えました。夫が朝、義母を実家に連れて行って、日中そちら
で過ごさせる。その際の食事などは義姉が世話する。そして夕方になると私が迎えに行く――ということにしたのです。
義母の世話も難しいものがありました。肉親の義姉に比べて、私は義母が何を求めているのか読み取るのに時間がかかる。うまくいかずに義母を怒らせたりもしました。
デイサービスにも通いましたが、そこでももめ事はしょっちゅう。理由はやはり、実家が気になるから。「何で家に帰してくれへんねん」と職員とけんかをするわ、すきを見て脱走しるわ。出先で私の携帯電話が鳴って、着信がデイサービスからだと、「またか」とため息が出ました。
今年1月、玉岡さんがテレビの仕事で岩手県に出張中、デイサービスから電話がかかる。「お母さんが車いすから立とうとして転倒した」との内容。幸い、大きなけがはなかったが、その後一気に症状が進み、介護がさらに困難になった。
義母はそれまで以上に「実家に帰る」と大騒ぎするようになりました。しかも、その「家」が自分の生家へとタイムスリップしているので大変。はるか昔に亡くなった自分の両親の元へ帰ると主張する義母に、説得は通じません。夜中でも出て行こうとするので、四六時中目が離せません。
ショートステイを頼んでも、「今の状態では24時間家族が付き添ってくれないか」と、利用を実質的に拒否される。泊まり込みのできる看護師を雇いましたが、2週間で「私には無理です」とやめてしまいました。
私はもう限界でした。でも、義母を入院させようという話にはならないんです。夫と義姉は、とことん自分たちで見ようという考えでしたから。
嫁の私は義母の介護する主体であっても、介護の方針を決める主体ではなかった。意見をしても「お前は他人やからそんなことが言えるんや」と反論されると、何も言い返せないんです。
そんな玉岡さんにも支えがあった。義母の送り迎えや世話を手伝ってくれた次女、90歳になっても自分のことを気にかけてくれる実父、そして何より、周囲の主婦仲間だ。
同じ境遇で、子育ても同時期に行った主婦同士で「長男のヨメの会」というのを結成しているんです。そのなかには、義父母の介護の世話の経験者もいて、「こういう公的サービスがあるよ」といった情報も教えてもらいました。
それ以上にありがたかったのは、同じ立場で泣き、同じ立場で怒ってくれること。「血のつながっているダンナやお姉さんとは、思いが違って当然や」などと本音で言ってくれる。私のことをわかってくれる仲間がいるだけで発散できます。私も介護をしている仲間を励ましてきました。互いに支え合ってきたのです。
義母の状況は悪化する一方で、入院に反対していた夫や義姉も最終的には同意し、義母は2月、兵庫県内の病院の認知症専門病棟に入院した。3月からはそこに隣接する介護老人保健施設に入っている。
入院後の義母はだいぶ穏やかになりました。6月末には帰宅できる予定です。ただ、今でも「生家に帰りたい」と言っており、義母に何とか現実の居場所を見つけてもらえないか、まだまだ苦労の日々は続きそうです。
義母の介護が最も大変だったときは、物書きの仕事が全然できませんでした。書けないのがつらくて、改めて「私は書く人間やな」と気づかされました。いつの日か今回の体験を基にした小説を書いて、介護に苦しんでいる人に「くじけないで」と力を与えられたら、と思っています。
たまおか・かおる 作家。1956年、兵庫県生まれ。神戸女学院大卒。教師、専業主婦を経て、87年「夢食い魚のブルー・グッドバイ」でデビュー。関西を舞台とした作品が多く、2009年、「お家さん」で織田作之助賞を受賞。コメンテーターなどとしても活躍する。
<取材を終えて>
義母の介護が大変だったころ、わずかな時間を使って、玉岡さんは句を詠んでいた。その数は300を超えるという。記者が取材をお願いした際の返信メールにも、「おろせない 荷を積んだまま 午後十時」との一句が記されていた。「下手くそな五七五ばかり」と玉岡さんは謙遜するが、途中で投げ出すことのできない介護のつらさがにじみ出ている。何より、句を詠むことが介護の負担を和らげていたのでは、と感じた。
(聞き手・田渕 英治)
(平成21年6月14日 読売新聞 ケアノート)
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